日本列島域における先史人類史の総合的復元方法の研究

科学研究費補助金(学術変革領域研究(A))および(基盤研究(B))(領域・研究代表者:山田康弘)のブログです

科研費研究成果報告(簡易・WEB版)

科学研究費補助金(基盤研究(B))
「愛知県保美貝塚出土資料に基づく考古学と人類学のコラボレーションモデルの構築と展開」報告(暫定簡易版)

研究代表者:山田康弘
研究分担者:設楽博己・茂原信生・山崎 健・山本直人・太田博樹・米田 穣・五十嵐由里子・谷畑美帆・松村博文・近藤 修・水嶋崇一郎・坂本 稔・佐々木由香

1.研究開始当初の背景
 縄文時代の社会構造を考えるにあたり,人骨出土例を中心とした墓制の研究はこれまで極めて有効な手段であると認識されてきた。特にその研究が盛んに行われた1970年代から80年代においては,縄文人骨が大量に出土した愛知県吉胡貝塚岡山県津雲貝塚などの調査事例を基礎として多くの論考が発表された。しかしながら,2010年当時において,人骨出土例を基にした親族組織の研究そのものは行き詰まりを見せており,1970年代に立てられた仮説を越えるような研究展開を見出せないでいた。その一方で子供の装身具・副葬品の有無などから縄文時代に階層化社会が存在したとの説も主張されるようになり,縄文社会の研究は,親族構造のあり方と階層社会の存否をめぐって,混沌とした状況を呈していた。
 このような状況から脱却するために,私たちは2011年から3年間にわたって科研費(基盤研究(B))「考古学と人類学のコラボレーションによる縄文社会の総合的研究」(課題番号22320155)を獲得し,愛知県田原市保美貝塚の発掘調査を実施した。しかしながら,縄文時代の複雑な社会構造を検討するためには更なる分析が必要とされ,周辺地域における他の遺跡の検討も不可欠である。また,このような学際的共同研究は,短期間のみで終わらせるべきものではなく,先の研究をさらに発展させ,考古学と人類学のコラボレーションモデルを確立し,展開させ,新たな学問領域とでも言えるBio-Archaeology(骨考古学)の確立を目指す必要があった。これが本研究申請の学術的背景である。(山田康弘)

2.研究の目的
 考古学者と人類学者が共同して愛知県保美貝塚を調査し,そこから入手した新規の人骨資料を基にして,その考古学的情報と人類学的情報をつき合わせることによって新たな社会像を提示するとともに,考古学・人類学のコラボレーションモデルを構築・展開することを目的とする。
 本研究では愛知県保美貝塚の調査を考古学者と人類学者共同で行い,出土人骨の人類学的検討成果が埋葬属性(位置・姿勢・装身具の有無・抜歯型式・頭位など)とどのような相関を持つのか考古学的検討を行い,保美貝塚における集団構造の解明・精神文化のあり方を復元する。
 本研究を行うことによって,縄文時代の社会について新たな知見が得られることは間違いない。しかしそれ以上に重要なのは,考古学と人類学の本格的なコラボレーションモデルを構築し,考古学界・人類学界の双方に対して「今後あるべき研究協力体制」の新たなモデルを提示することができるという点である。さらに今回の研究成果を踏まえて,考古学と人類学が融合したBio-Archaeologyとでも言うべき日本における新たな研究領域の創出を提言することも可能である。(山田康弘)

3.研究の方法
 本研究は以下のような形で進められた。
(1)愛知県保美貝塚から入手した新規の人骨出土例に対し,考古学的考察(墓制・集団構造などの分析)および人類学的考察(形質・DNA・同位体・歯冠計測などの分析)を行い,双方の研究領域の分析結果をつき合わせ,縄文時代の社会構造についてのモデルを作成する。
(2)保美貝塚周辺の遺跡である田原市伊川貝塚豊川市稲荷山貝塚の資料についても上記のような検討を加え,先のモデルについての蓋然性を検証する。
(3)以上の共同作業を通じて,考古学と人類学のコラボレーションモデルを提示するとともに,その有効性について書籍等を通じてアピールする。。
(4)上記3と連動し,各学会において研究成果を発表するとともに,その有効性についてアピールする。
(5)講演会などを通じて研究成果を社会に還元し,社会教育に貢献する。(山田康弘)

4.研究成果
 愛知県田原市保美貝塚から入手した新規の分析資料の検討を行った。特に複数の盤状集骨葬を含む集骨葬例は約30年ぶりの検出例となり,本例を中心に研究を進めた。その成果は以下の通りである。
 また,発掘調査出土の動植物遺存体,出土骨角製品等の分析もあわせて行っている。

(1)集骨葬例の考古学的検討結果
 集骨葬例の土坑は3.3m×2.3mほどの楕円形をなし,深さは40僂曚匹任△襦
 今回保美貝塚から検出された集骨葬例は,およそ7基の盤状集骨と集骨から成り立っている。まず,土坑の中央に長方形に長骨を組み(1号),その東に二連,長方形に盤状集骨を組む(2・3号)。1号の西に斜めに組み(4号),それに接して南に5号,さらにその東隣に6号を組む。4~6号は平行四辺形に組んでおり,土坑の縁に沿って多角形をなすように配置される。そして,6号の東に7号を配置するが,7号は長い骨を乱雑に束ね,頭蓋骨を多く配置する。
 いずれの盤状集骨も,頭蓋骨を縫合で分割し,割って隅などに置いている点は,他の遺跡の例と共通している。伴出土器の時期はまだ明確にしていないが,縄文晩期前半の元刈谷式~中葉にさしかかった桜井式くらいの時期の可能性がある。
 これまでに盤状集骨は,渥美半島を中心とした三河地方に10例ほどが検出されているが,そのなかでも特異な葬法をとっていることが明らかになった。その点を含めて,箇条書きにまとめて他の例と比較しながら特徴を列記しておきたい。
・楕円形の土坑に沿うようにして複数の盤状集骨が多角形に配置されている。盤状集骨は重なり合っている部分がある。多角形の盤状集骨は,保美貝塚のかつての調査事例に5角形をなすものがあるが,これほど多数の集骨がそれも重なるようにして配置されていた例は初めてである。
・一つの盤状集骨には1体分と考えられる集骨があるが,まだ未確定である。集骨の中に肋骨をリング状におさめたものがあるが,本刈谷貝塚に類例がある。
・多角形に配置するために,平行四辺形に組み,それを連ねていくなど,空間設計に入念さが認められる。これは他に例がない。
・下顎骨に特別な配慮が認められるが,これも他に例はない。
・焼人骨が多量に伴う集骨例も,この地方のこの時期には例がない。
・土器の破片で蓋をしたような例は,宮東貝塚にその可能性が指摘できるが,見性の手がかりを欠いており,本例が良好な初めての例である。
・抜歯人骨もあり,いまのところ2C系に限られるのは,他の盤状集骨と共通しており,抜歯型式を共通にする集団に特有の葬法であったことがわかる。
 このように,三河地方における特異な葬法である盤状集骨の事例を一つ加えたわけだが,他の例に共通する特徴も認められるものの,多数の盤状集骨を重ねながら多角形に配置することに象徴されるように,他の例には認められない特徴も数多く指摘することができる。(設楽博己)

(2)集骨葬例および単独・単葬例の形質
 盤状集骨葬例には少なくとも14体が含まれており,うち13体は成人,1体は未成人であった。これは過去最大級の盤状集骨の規模といえる。集骨に最も用いられていたのは頭蓋骨であり,計14体分が含まれている。下肢(10~12体),上肢(9体)がこれに続き,さらに上肢帯や下肢帯の利用も少なくない(8体)。四肢骨は長く太いものほど用いられた傾向が認められる。骨の左右の偏りは認められず,どちらか一方の側を意図的に使用した形跡はない。保存された成人骨盤7体分の性別は,男性4体,女性3体である。一方で,保存の良い大腿骨の骨幹のみに着目すると,右側・左側のいずれも個体数は10体となり(成人9体,未成人1体),さらに成人についてはサイズをもとにして男性7体,女性2体と判別される。従って男女の利用という観点ではかなり男性に偏在するようである。未成人骨は骨幹の長さから1才半程度の乳幼児であると判断される。
 成人大腿骨2標本には,近位端付近の,筋や靭帯付着部位に鋭利なカットマークが複数観察された。股関節周りの筋や靭帯の切断・除去を目的とした人為的行為の跡と考えられる。また,別個体の大腿骨頭には,剥片(骨か?)が陥入していた。(茂原信生・近藤修・水嶋崇一郎)

(3)集骨葬例における寛骨耳状面(妊娠痕他)の検討結果
 保美貝塚から出土した人骨(女性人骨3個体,男性人骨8個体)について,寛骨耳状面前下部および耳状面表面の観察を行った。
 その結果,女性3個体のうち,2体の寛骨耳状面前下部に強度の妊娠出産痕が認められ,1体には弱い妊娠出産痕が認められた。資料数が少ないので,この出現状況(妊娠出産痕の出現率が100%,強度の妊娠出産痕が67%,弱い妊娠出産痕が33%)が集団や地域の出生率を反映していると即断することはできない。しかし今後,保美貝塚や他の縄文集団および他の時代の集団における妊娠出産痕のデータを増やすことにより,出生率の地域差,時代差が明らかになる見通しが立った。また,男性人骨8個体全ての寛骨耳状面前下部に,耳状面前溝が認められた。男性寛骨の耳状面前溝についても,データを増やすことにより,耳状面前溝の出現頻度の時代差を明らかにし,それによって耳状面前溝の成因を推定できる見通しが立った。(五十嵐由里子)

(4)出土人骨に対する古病理学的検討結果
 今回の観察資料に対する古病理学的所見に関する成果は下記の様に記すこととする。
頭蓋骨における骨多孔性変化(クリブラ・オルビタリア,クリブラ・クラニー)の成因は鉄欠乏性貧血によるものとされている。そのため本疾患の出現頻度や重症度を調査することによって,非特定性の疾患や食性の変化をとらえることができると考えられる。今回の観察総数は多いとは言えないが,観察所見からは本集団におけるクリブラ・オルビタリア,クリブラ・クラニーの出現頻度には出土地点ごとの相違は観察されていないとみなされる。観察個体の中では1体にのみグレード2に相当するクリブラ・オルビタリアが観察されている(この個体は未成人個体であり,本集団の成人個体には本所見は観察されていない)。
 骨膜炎の多くは非特定性の疾患に関する所見によるものとされており,集団としての健康指標を提示するために観察される所見である。集骨葬例では1例において下肢骨に本所見が確認されており,上肢骨には本所見は観察できていない。また下肢骨における本所見は脛骨においてのみ観察されている。
 さらに,集骨葬例では肩関節及び肘部関節に軽度の骨関節症の所見が観察されている。この他,脊椎では椎体部を中心に本所見が確認されている。
 下肢骨における骨関節症は,集骨葬において膝関節の一部である大腿骨遠位端に観察される。また単体埋葬の個体では観察可能な関節面のほぼすべてに軽度の骨関節症の所見が確認できる。(谷畑美帆)

(5)人骨由来の古DNAの分析結果
 分析を実施した試料は,保美貝塚の2013年度調査にて採取した人骨の歯7点及び,2010年度田原市教育委員会報告例の伊川貝塚出土合葬例(成人女性と小児)の歯2点である。これまでに改良してきた古DNA抽出法をこれらの試料に適応した。
 その結果,9試料全てから,5ng以上の古DNAを得ることに成功した。次に,これら古DNA抽出液を原液として,ヒト・ミトコンドリアD-Loop領域を対象として設計された3つのプライマーセットを用いてPCRダイレクトシーケンシング法を実施し,合計約260bpの配列決定を試みた。
 その結果,保美貝塚においては2例,伊川貝塚においては2体全ての配列決定に成功した。得られた配列が古DNAであるか検証するために,実験者及び遺跡出土人骨を鑑定した形質人類学者の配列と比較した結果,得られた古DNA配列はどの研究者の配列とも異なる配列であった。このため,PCRダイレクトシーケンシング法で得られたDNA配列は,分析対象試料からの内在DNAである可能性が高いことが示された。
 これらのうち,伊川貝塚土人骨2個体のDNA配列は一致せず,少なくとも同一母系統ではないことが示された。当該人骨は合葬例であり,出土状況から母子関係であった可能性が指摘されていた。本分析結果は,近接して埋葬された人骨のDNA配列が異なることから,成人女性と子供の合葬例が必ずしも母子関係を意味しないことを初めて示した報告例になるであろう。
 続いてミトコンドリアDNAの全長及び全ゲノム解析を実施し,縄文時代人の詳細な遺伝学的解析及び表現型の復元を実施するために,古DNA抽出液を原液として次世代シーケンサー(NGS)で解析するためのDNAライブラリを作成した。NGSライブラリ作成には,これまでに改良してきたNEB社が提供するライブラリ作成キットの方法を部分的に変更したものを応用した。上述した古DNA抽出液(9個体分)から作成した古DNAライブラリをIlumina社のNGSであるMiseqでDNA配列解読を試みた。その結果,伊川貝塚土人骨の成人女性の古DNAライブラリから,約2.5%のヒトDNAが得られた。先行研究において,1%のヒトDNA配列が含まれていた場合,ミトコンドリア全ゲノムやゲノム解読ができる可能性が指摘されている。また,特に本結果は,温暖湿潤な地域で得られる古DNAライブラリにおいて,非常に良い結果と言える。分担者・太田は「ゲノム支援」の一部に採択され,現在,伊川貝塚出土女性人骨のゲノム解析を実施している。一方,これ以外の試料については,1%以上のヒトDNA配列が含まれておらず,今後はミトコンドリア全ゲノムの濃縮法を改良・適用していくことで,ミトコンドリア全ゲノム配列解読を試みる予定である。(太田博樹)

(6)歯冠計測による血縁関係の分析
 親族関係の推定においては上顎の第1小臼歯,第2小臼歯及び第一大臼歯の計6項目の組み合わせが有効とされている。今回の分析では,この組み合わせを用い,血縁判定の基準を相関係数0.7以上と高めに設定することにより,確実性を高めている。東大に所蔵されている過去の資料と今回の資料を合わせて46例を分析したところ,東大人骨型録番号130187と130165が密接な関係を示しており,血縁関係にあると推定された。(松村博文)

(7)人骨の食性分析および年代測定結果
 本研究では,盤状集骨葬例から14点の人骨資料を採取してコラーゲンの抽出を試みたが,そのうち11点について保存状態のよいコラーゲンを得ることに成功した。
 日本列島で利用される動植物の同位体比にコラーゲンへの濃縮を補正して比較すると,1体を除く10体の同位体比が,海産魚類の炭素・窒素同位体比に近似しており,これらの人々が強く海産物の影響をうけた可能性が示唆された。
 保存状態のよいコラーゲンで放射性炭素年代を測定したところ,未較正の値で3090~3270 BPの値を示した。炭素同位体比を基準として海洋からの炭素寄与率を推定し,大気・陸上生態系の較正曲線IntCal13と海洋の較正曲線Marine13を混合して,それぞれの個体について較正14C年代を推定した。盤状集骨葬例に含まれる人骨から得られた較正年代11点が同一であると仮定してχ二乗検定をすると,T=14.619(df=10)となり,5%基準18.307よりも小さい値を示していることから,統計学的には同一の年代に由来することができる。その場合は,1標準偏差に相当する確率分布は3044~3009cal BP (68.2%),2標準偏差に相当する確率分布は3056~2997cal BP (95.4%)となる。また,盤状集骨葬例に含まれた人骨11点の年代がもちうる幅(Span)は,1標準偏差で0~112年,2標準偏差で0~190年と推定され,盤状集骨葬例は,ほぼ同時期の人骨で構成されていると推測される。(米田 穣)

(8)保美貝塚より出土した動物遺存体についての所見と考察
 哺乳類としてはニホンジカ,イノシシが出土した。魚類はフグ科,クロダイ属,スズキ属,ウナギ属,ボラ科,コチ科,ニシン科,マアジ?などが出土した。特定の魚種が優占せずに,多種多様な魚種が混在することが特徴的である。小さな魚類が多く含まれているが,これについては網漁が行われていたためと想定される。
 保美貝塚はこれまでにイノシシやニホンジカが数多く出土したことが知られており,多量の石鏃とあわせて,活発な狩猟活動が指摘されてきた。一方で,過去の発掘調査では土壌選別による微細資料の回収がなされておらず,とくに小型魚類の漁撈活動は不明であった。(山崎 健)

(9)保美貝塚より出土した植物遺存体の所見と考察
 得られた炭化種実は,木本植物ではマツ属炭化葉とオニグルミ炭化核,クリ炭化果実・炭化子葉,コナラ属炭化子葉,マタタビ属炭化種子,サンショウ属炭化種子,ミズキ炭化核,トチノキ炭化種子の8分類群,草本植物アワ炭化種子とオオムギ炭化種子の2分類群の,計10分類群であった。
 食用可能な種実としてオニグルミとクリ,コナラ属,マタタビ属,サンショウ属,ミズキ,トチノキが得られた。オニグルミやクリ,コナラ属,トチノキといった堅果類に加えて,マタタビ属やサンショウ属,ミズキなどのしょう果類の利用が明らかなった。コナラ属には落葉広葉樹と常緑広葉樹が含まれるが,この他はすべて落葉広葉樹であった。炭化種実は,これまでの保美貝塚の調査では同定されておらず,今回の土壌選別により明らかになった。栽培植物のアワとオオムギは,いくつかの年代測定の結果から後世の混入の可能性があり,出土位置を検討する必要がある。(佐々木由香

(10)補論・特論
1)出土遺物等による生業形態の分析
 ここ10年あまりの間,生業形態,とくに植物採集活動および植物栽培に関する研究では,三つの自然科学的分析法によって新たな情報が得られてきている。第一は,縄文土器に付着した種子圧痕をシリコンで型取りしたものを走査型電子顕微鏡で観察して種類を同定するレプリカ法である。第二は,石皿・敲石・磨石の表面や土器内面のコゲに残留したデンプンを分析する方法である。第三は,土器内面のコゲの元となった食料を解析するための炭素・窒素安定同位体比分析である。ここでは,残存デンプン粒分析と炭素・窒素安定同位体比分析を用いて植物食の復元を行った。
 分析の方法を詳述していくと,縄文土器の内面に付着した炭化物のコゲを採取してデンプン粒を検出し,煮炊きされた植物質食料を特定していく。また,それを特定できないまでも,推測するための状況証拠をつかむために縄文土器の内面に付着した炭化物,すなわちコゲの炭素・窒素安定同位対比分析を行っていく。コゲの炭素と窒素の安定同位体比を計測するとともに,炭素含有量と窒素含有量を計測してC/N比を算定し,コゲの元となった食材を推定する方法である。
 保美貝塚をはじめとして東海地方西部の縄文時代後期晩期の遺跡から出土する土器量はそれほど多くなく,さらには十分な量のコゲを確保できる資料はきわめて少なく,研究を実施していくうえでの条件が十分に整っていない。そこで,分析試料が確保できる北陸地方の縄文後期晩期の遺跡を対象として分析を行い,東海地方西部を類推するための状況証拠としたい。ここでは石川県南部に位置する手取川扇状地の扇端部に立地する後晩期の4遺跡を主要な研究対象としている。具体的には,金沢市米泉遺跡,金沢市新保本町チカモリ遺跡,金沢市中屋サワ遺跡,野々市市御経塚遺跡である。
 分析の結果から導くことができる結論は以下のとおりである。土器内面炭化物の残存デンプン粒分析によってウバユリ属やカタクリ属,鱗茎類などに由来する可能性をもつものを検出し,石器ではカタクリ属やユリ属などの塊根類に近似したものを検出した。また,デンプン粒が検出された土器内面炭化物の炭素・窒素安定同位体比分析によって,御経塚遺跡の1点を除外してはトチノキやドングリ類,クリなど堅果類のデンプンが煮炊きにほとんど使用されていなかたことを明らかにした。実験考古学の成果では,縄文土器内面にコゲができるためには粉状のデンプンが必要であることが判明している。以上のことから,深鉢で煮炊きに使われたデンプンには根茎類のデンプンが含まれている可能性が高いといえる。そして縄文時代においても根茎類からデンプンが抽出されて食料にされていたことを実証したとはいえないまでも,その可能性は一段と高くなったといえよう。(山本直人

2)環状木柱列の基礎的研究
 保美貝塚では環状木柱列に類似する遺構が確認されており,それと比較するために北陸地方の環状木柱列に関する基礎的な研究を行った。
 現在のところ,北陸地方で環状木柱列が出現するのは中屋2式期で,その較正年代は約1040~約970 cal BCであることから,建造されはじめる較正年代は1000 cal BC前後と推定することができる。出現した時期の環状木柱列は直径が6m前後と小型であるが,下野式終末~長竹式初頭の約820~約770 cal BCになると直径が7.5~8mと大型化する。真脇遺跡ウイグルマッチングの解析結果によって環状木柱列E環は540 cal BCか,それ以降に建造されたと推測できることから,長竹式期の終末まで建造されていたと推察できる。
 環状木柱列の大型化がはじまる時期は,地球規模の気候変動によって日本列島も寒冷化していた時期である。それを契機として環状木柱列を大型化させ,共同作業で建造することと儀礼を行うことによって,地域社会の絆や生活共同体の紐帯を強化したものと推測できるだろう。(山本直人

3)東海地方西部の後晩期社会の人口推定
 渥美半島から豊川流域において「1集団の人口を平均20人とすれば,1部族の人口は,多くても300人を大きく超えることはなく,西三河そして尾張の部族の場合も,同様であったろう」と春成秀爾は東三河部族の人口を推定している。
 仮に東海地方西部が一つの部族の領域になるとすると,尾張・西三河東三河・美濃の四つの地域をふくむことになり,300人に4地域をかけると1200人となる。これに遺跡群が小さな遠江の人口をどれくらいにみつもるかによって数値はかわってくるが,東海地方西部の人口を約1200人と想定しておきたい。
 縄文時代の人口について,山内清男は「縄文人の人口を推定することはいずれの方面から触れようとしても不安が多いが,全国で十五万から二十五万,その分布は西南に薄く,九州から畿内にかけてが三万から五万,東北部は人口一様に多く,中部,関東,東北,北海道はそれぞれ三万から五万とみておけば,大した間違いは無いと思われる」と述べている(山内清男1964「日本先史時代概説」『日本原始美術機‘貶玄暗擺錙戞す崔娘辧法その後,15万人あるいは25万人と推定されていたカリフォルニア・インディアンの人口を35万人と推定する研究がでたことを根拠に,「縄文期人口はおよそ三〇万ぐらい,そのうち関西,九州の人口はようやく三万から五万ではないだろうか」と述べている(山内清男1969「縄文文化の社会」『日本と世界の歴史』第1巻,学習研究社)。
 研究分担者の山本は,北陸地方の石川・富山両県と越前・飛騨の一部を含む地域に一つの部族の存在を想定しており,その領域は小林達雄氏が案出したd-4核領域に該当するものである。北陸は遺跡数の多い東日本から遺跡数の少ない西日本に移行する中間地帯に位置しており,現在の人口から縄文時代後期晩期の人口を以下に推定してみよう。
 2010年の国勢調査の結果をみると,日本の総人口は128,057,352人,富山県は1,093,247人,石川県は1,169,788人,福井県は806,314人である。福井県のうちd-4核領域にふくまれない嶺南地方の661,043人をのぞき,富山県と石川県,福井県嶺北地方の人口の合計は2,924,078人である。これは日本の総人口の2.28%をしめることになる。山内清男は縄文時代の人口を全国で15万人~25万人と想定しているが,後晩期は全国的には遺跡数が少ないので想定人口のうちの15万人を採用すると北陸は約3,400人となる。これは,東海地方西部の約1,200人を遺跡の数や規模を考慮にいれながら比較した場合,大筋において妥当な数値であると考えることができる。春成秀爾が東三河で300人をこえないと推定した人口も適当なものであると判断できるだろう。(山本直人

5.考古学と人類学のコラボレーションモデルの構築と展開―まとめにかえて-
 愛知県保美貝塚出土資料を中心として,考古学と人類学のコラボレーションによる共同研究を行ってきた。そこで採用した方法は考古学者と人類学者が同一の遺跡を共同して発掘調査し,そしてそこから得た新規の資料を共同利用しながら研究を進めるというスタイルであった。一見オーソドックスにみえる研究形態であるが,その実施には多くの解決すべき問題が存在し,一朝一夕に進めることができるものではない。
 本研究におけるそのプロセスを以下に箇条書きし,考古学と人類学のコラボレーションモデルの提示としたい。
1)墓制論・社会構造論に関する研究史的検討と問題点の抽出
2)新規資料の入手を企図・発掘調査候補地の選定
3)地元教育委員会文化財担当者,および土地所有者との折衝
4)目的意識を共有した共同研究の企画立案
5)目的意識の共有が可能な研究チームの人選・交渉・組織設立
6)研究資金の獲得
7)発掘(試掘・本調査)調査の実施
8)発掘現場・研究会における考古学者と人類学者のデスカッション
9)発掘調査説明会などの開催による社会への成果還元
10)出土遺物の整理・個別研究の実施
11)学会発表等,研究成果の積極的発信
12)論文等における研究成果発表
13)出版社等との交渉・研究報告書・研究論集の刊行
 上記のプロセスは決して時系列的に一方向にのみ動くものではなく,たとえば7と8,あるいは10~12の間には,反復を繰り返す場合も多々存在するものである。このようなプロセスにおいては,研究分担者(考古学者・人類学者)が一同に会した共同研究会の開催を適宜行い,情報の共有をはかり,研究計画全体が上手く進んでいるか調整していくことが必要である。また,この手のコラボレーションでは,研究を主催する人間(PI)がリーダーシップを発揮し,研究成果を統合するためにはどのような情報が欲しいのか,予め明確にし,研究分担者・連携研究者・研究協力者に伝えておくことも重要である。そして,組織作り,すなわち誰に研究チームに入っていただくかという点が研究の成否に大きく関わるということも特記しておきたい。お互いに尊敬し合える関係こそ,コラボレーションを行っていくための重要な点である。
 共通する研究スタンスとして堅持したいのは,研究分担者全員が何らかの形で発掘現場に立ち,実際の資料の出土状況,サンプリングの実施などを行うということである。これにより,各分担研究者が資料に対する共通認識を持つこと,加えて何を目的として分析を行うのかということを現場レベルで明確化する事ができる。
 このコラボレーションの結果,従来の考古学的仮説とは異なる事実が多々判明した。保美貝塚出土資料については,上記のように各研究分担者の分析結果が出され,一部考察も行われている。本研究を含めた全体的な考察および研究論文の公表については,将来的には出版社から一冊の書籍としてまとめる方向で調整を行っているが周辺遺跡出土資料の検討による成果においても重要な成果があがっているので,ここに記載しておきたい。
 本研究では周辺遺跡の検討として,稲荷山貝塚土人骨の同位体分析および年代測定を併せて行った。その結果,従来の抜歯型式でいうところの4I型と2C型が必ずしも同時存在せず,両者が年代差を持っていた可能性が判明した(日下宗一郎・米田 穣・山田康弘「稲荷山貝塚より出土した縄文時代人骨の放射性炭素年代測定」『第69回日本人類学会大会』,2015年10月11日,産業技術総合研究所(東京都,江東区)。)。このことは,「墓域内においては長期にわたって一定の墓制が継続していた」と考える従来の墓制研究の前提を覆しただけではなく,70年代以降より唱えられてきた親族構造論がそのままでは受け入れ難いということも明らかにした。
 一方で,4I型と2C型の間に時期差が存在する可能性があるのであれば,今回の保美貝塚土人骨の抜歯型式が2C型に限定されるという点もうなずけるであろう。この点は今後の検討課題である。
 また,伊川貝塚出土合葬例のDNA分析の項にもあったように,成人女性と子供の合葬例であったとしてもそこに母系的な遺伝的関係が存在しない事例が存在するということも明らかとなった(覚張隆史・ライアン・シュミット・松前ひろみ・勝村啓史・太田博樹・埴原恒彦・小川元之・柴田弘紀・茂原信生・近藤修・米田 穣・増山禎之・設楽博己・山田康弘「渥美半島における縄文時代人骨の古代DNA分析」『第69回日本人類学会大会』,2015年10月11日,産業技術総合研究所(東京都,江東区))。このことは,従来このような事例が母子合葬例であったとする見解に対して否定的な結果であり,これについても新たな解釈が必要となった。このように,従来の見解・定説に対して再検討を促す研究成果を挙げることができたことは特筆されよう。
 本研究の成果は,墓制論・社会論をはじめとして,人骨出土例を取り扱うような考古学的な研究は,人類学とのコラボレーション無しには不可能であるということをまざまざと見せつけることとなった。今後,縄文時代の墓制論・社会論は人骨から得られる情報およびその研究成果を無視して進めることはできなくなるだろう。そして,この手の研究を推進していくためには,考古学・人類学の両分野の橋渡しができるような人材の育成が不可欠であり,そのような学問領域を創設していくことが重要である。
 なお,本研究においては地元田原市における文化財教育の一環として,同市内小中学校における出前授業,文化財講演会の実施の他,吉胡貝塚資料館や田原市中央図書館などで保美貝塚の発掘調査に関するパネル展示を行うなどし,本研究のPRおよび,埋蔵文化財の教育普及に取り組んだ。また,我々の調査後,保美貝塚田原市指定文化財となり,文化財保護についても一定程度の貢献を行ったと考えられるだろう。
 その一方で,田原市田原市教育委員会の方々,および地元の方々の献身的なご協力がなければ,本研究の遂行は不可能であった。末尾ではあるがここに記してお礼申し上げたい。(山田康弘)